ヴァイオリンは私の元へ

私は相変わらず二階の自室で机に向かって作業をしているのだけど
一階からは物柔らかなヴァイオリンの音色が聴こえてくる
奏者は父だ
父はヴァイオリンを弾いている

と言っても弾き始めたのは昨年の秋頃から
まだその音色には覚束なさがちらつく


昨年の秋
祖父が死んだ
私の父の父だ
祖父はヴァイオリンを弾いていた
長くやってただけあって上手かった

祖父が認知症になっていた
暫くして老人ホームに入った
それからだった
父は祖父のヴァイオリンを手に老人ホームの一室へ足を運ぶようになった
祖父の側で拙いながらもヴァイオリンを弾く
触れたこともない楽器に惑いながら

認知症は時間に依拠して進んでいく
病状の悪化は足を止めない
遂に祖父の部屋には病室という名前がついた
身体に栄養やらなんやらの管が差し込まれ寝たきり
もう僕の顔も父の顔も覚えてはいない
辛いことを全部忘れられる認知症は幸せな病気だろうか
少なくとも遺された家族は悲しいよ


父は毎日病室へ足を運んだ
ヴァイオリンを抱えて
昔は怖くて接し辛かったと言った祖父を側に
祖父の好きだった曲を弾く
途切れ途切れの脈絡を必死に繫ぎ止める
怖かった祖父もきっと笑ってる
笑ったまま
そのまま
天国へ行ったはずだ


別れ
特に驚きも無いが ただ ただ
なんだ わかんない
ああ そうだ

きっとこのヴァイオリンは私の元へとやってくるのだろうと予期した
最期の別れの花向けとして
私の番もやってくる
そう予期した

怖かった祖父から
不器用な父へ
不器用な父から
私へ
そして私も先の今際に贈られるのだろうか

感謝と慰労の奏として