teenage

 『人生は選択の連続である』

 この言葉をいつどこで知ったのかは定かではない。学校の授業で教わったのか、テレビで流れてくるのを耳にしたのか、それはもうわからないものになってしまった。しかし元を辿れば、これはシェイクスピアの言葉である。シェイクスピアは作品の一つである『ハムレット』のなかで、『LIfe is a series of choices.(人生は選択の連続である。)』という一文を残した。これはまさしく言い得て妙であると僕は思う。我々は種々の事柄に関して、常になにかしらの天秤にかけて判断を下している。出かけるときの服装、一日三食の献立、休日の過ごし方、大小様々なものがあるだろう。分岐点を前に、無意識的に立ち止まり、意識的に選んで歩みを進める。人生は選択の連続。いくつになっても我々は迷い、決断をしながら歩いている。いつの時代でも連なり、続いている。しかし、この選択の連続性には偏りがあるのではないか、と僕は考えている。

 我々は十代のうちに、人生を左右する岐路の、その多くを選択することを強いられる。小学中学高校大学就職。もちろん他にも路はあっただろう。目まぐるしく移り変わる時間の流れのなかで、その時々の自分にとっての正解を選び続けないといけない。選び間違えはまだいい。若さのあるうちは、何度かの失敗は許される。だが選び遅れてくるともうだめだ。後悔のできる余裕は枯れ、現実が残酷に押し寄せてくる。逃げ遅れた者はせめて波に攫われぬよう、必死に次の何かを探し、縋りつく。十代は迷う、二十代は選ぶ、三十代で決めて、四十代で立つ。そのあとは十年おきに人生の再確認がやってきて、過去の選択を見つめ返すことの繰り返し。三十代になってもまだ迷ってなんかいたら、はんぱ者だのならず者だの、世間様に後ろ指を指されてしまう。人の世ってのは、ほんとうにどうやらそうらしい、と最近よく思う。

 僕だってそうだ。みんなと同じように人生があった。若さという輝きに惑わされ、散々迷った挙句、多くの夢が潰えた生涯だった。でも悪いのは、一つを選びきれなかった自分で、選ばれる努力をしなかった自分だ。全ては選ばれなかった自身の責任なんだ。だから運命を恨むなんて烏滸がましい真似はしちゃダメだよ。運命を嘆くなんて卑しい真似はしちゃダメなんだよ。

 

 ひとつ訊く。

 お前は最後にいつ泣いた。純粋な悔しさだけで涙を流したのは、いつが最後だよ。忘れてるなら、お前の人生そんなもんだ。年を重ねれば重ねるほど、余計な感情ばかりが増えて邪魔してくんだろ。男は泣いちゃだめとか、女は慎ましくとか、そんなのくだらないんだよ。わかってるよな。でももう染み付いちゃってるんだろ、そういう生き方が。人生こんなもんかと自分でほどよい居場所を決めて、うまい具合に妥協できる器用さが身についてくるんだろ。たまに感傷に浸って、ついでに真夜中の酔いで誤魔化すんだろ。なあ、お前だよ。お前に言ってるんだ。数年後にまたこの日記を開いて、こんなのも書いたなぁ、って懐かしむ間抜けなお前だよ。お前はおれより賢くなって、この文脈を「若さ」だと嗤うんだろうけど、じゃあお前さんはそこで何者かになれたのかい? そこで失ったものに気づけているのかい?

 僕は十九だ。あと一ヶ月もすれば誕生日が訪れ、二十になる。二十歳ってのはつまり大人だ。際限のない自由と引き換えに、同等の責任を背負わないといけなくなる。人は他人事のように“まだ二十”だと言うが、僕にしてみれば“もう二十”だ。多くを選び終え、その結果を踏まえながら多少を諦め生きていく段階だ。酒が飲める、煙草が吸える。そんなものが大人だというのならば、僕はずっと子供のままでいい。それならば大海を知らぬまま、いつまでも井戸の中の幼生でいたかった。これ以上歩きたくはない。ほんとにもう、年老いたくはなかったんだ。

 二年前から小説を書きはじめた。きっかけはひとりの偉大な音楽家で、僕は彼の音楽とそのうつくしさに魅了され、やがて彼のようになることを願い、ギターやら作曲ソフトなんかに触れるようになっていった。しかし音楽に関して僕は、はっきり言ってセンスがなかった。頭の中のイメージを音として抽出することがあまりにもヘタで、それを自覚した翌日にはぱったりと音楽を辞めた。手元には音楽になりきれなかった駄作だけが残り、それがもどかしくてなんとなく文章として書きあげてみた。すると意外にもすらすらと書け、ひとつの物語ができた。今思えば支離滅裂で恥じらいのない、たいへん稚拙なものであったかもしれないが、そこには確かな素朴さと、文章を書くことの根源的な喜びとが同居していたように思える。時を経て、ひとつだけ、たったひとつだけ、ほんとうに心の底から描きたいと思えるものを見出すことができて、それを書きあげるために今は「私とその周辺」について考え、なぞっている。文章はまだまだ下手で及ばないが、焦りと葛藤がいつも付き纏うが、日々は辛く苦しいが、それでも、常にやりがいが勝る。そんなかけがえのない時間を謳歌している。もちろんそんな生活を妄想しながら、ただ無意味に過ごす一日だってあるんだけどね。そんな日々をも愛していよう。

 

さて、最後だ。

 今の僕を忘れて欲しくない君に宛てる。

 これまで色んな選択をしてきただろう。不明瞭な路があって、一歩一歩を恐れながら踏み出してきただろう。進むべき理由なんてないのに、なぜか足を出してきただろう。だからこそ、一本道の迷路を散々迷って辿り着いた今のように思えるのはきっと間違いじゃない。過去に対して無力な僕らは、前だけ見据えて歩くしかなかったんだ。将来の自分を殺さないようにすることだけに必死になって、未来をも屈折させうる現在に怯えながら、ずっとそうやって生きてきたんだ。僕は今、クタクタになるまで毎日なにかをやっているよ。勉強でも遊びでもなんでも、一日のエネルギーを使い果たすような毎日を送っている。それが未来の自分に対する義務だと思うし、過去に対する責任だと思うからだ。君にこれ以上後悔をさせぬよう、僕は義務を全うしている。だからどうか、数年先の未来で、今の僕と目を見て話せるくらいに、あなたを全うしていて。

 報われた未来で、また会いましょう。

拝啓、大人になってしまう君へ。

早朝は青

寝てないけど目が覚めた
布団に入ったのは二時で 目を覚ましたのは四時半
その間 目は瞑っていたが 寝れはしなかった
一日に満足して布団に入ったはずなのに それからどんどん考えが溢れてやまなかった
ここ最近はずっと健康的な生活を意識的に送っていたから
この眠れない感覚の久しさに
それ特有の不快感に
ちょっとなつかしさを感じていた


僕を起こさせたのは 早朝の青さだった
ひらけたカーテン越しに 青い光が 薄くしのぶように差しこんでいた
小鳥のさえずりがどこからか聴こえていて まるで未開の森に迷いこんだ日の明け方みたいに 神秘的に思えた
やさしい景色
日の出より前の景色だ

その景色を目の当たりにして
なんとなく
ほんとうになんとなく
この日記のことを思い出した
ここしばらく 全くひらいてなかったから これまたなつかしく思う
自分の過去の日記を軽くあさってみて
関わりのあった人たちは今どうしてるだろうとブログを覗きにいった
そこでたまたま りっすん というなんかよくわからんコンテストみたいなのが目に入った
ほんとによくわからん
広告で表示されたということだけわかる
それでちょっと覗いてみたらおもしろそうなことが書いてあった
「迷い」と「決断」 について書けということらしい
ちょっと自分も参加してみようかなと思った
締め切りは6月5日らしいから のんびり書いてみる

気がつけばもう六時
太陽は東に昇り
鮮烈でまばゆい光が辺りを覆う
烏が声を荒げ 哭いている
いつも通りの朝が来たと 沈んだ世界に告げるように

白船

新幹線の往き来にはもう慣れた
片道切符の落ち着かない触り心地にももう慣れた
それでも親しみがあるものとの別れには未だ慣れないものがある

なんなんだろうな 別れる瞬間のあの物哀しさ
父は最寄り駅の改札で
母は一号車の窓から
何度も何度も振り返り手を振った
最後の数瞬まで手を振った
僕も せめてもの笑顔で手を振った
ゆっくりと 次第に速く 加速度的に離れていく
またね故郷 心が呟く


新幹線が出るとすぐに 浪人をしていた友達からLINEがきた
大学合格したって
おめでとう
うれしい
でもごめん 俺はもう行くよ
さみしさはぜんぶ隠して 相手が腹を抱えて笑えるような戯けたメッセージを送る
そういうのは得意なんだ
昔からの付き合いの奴らの前では ピエロのままでいいよ
ずっと一緒に笑っていよう
その時間が俺も好きだから

他所

太陽が沈むころ 何かを書きはじめる
何かを考え 何かを感じ
自分の周囲3メートルに孤独をつくる

のめり込んでいると時間は過ぎ 書き終えるのはちょうど月が登るころ
一息つき 疲弊しながらも再び読み返してみる
すると何かが違うような感覚がして 首を傾げながら日記を閉じる

下書きからもう一度
しかし同じことで
何かが足りなくて 何かが違くて
なにがどこでどう間違っているのかが分からない
自分が何を求めているのかが分からない
分からないまま下書きが増え もう腐った

さて どうしようか

新年

明けましておめでとうございます
なんてのは
特別な言葉じゃないし 魔法の言葉でもない
毎年ふつうに言ってて 言う相手がいて
だけど今年の年末は実家に帰らなかったから ずっと 誰にも言えないで


ひとりで迎える正月は寂しかった
寮の給食は止まって そのあいだは1日2食コンビニ弁当
コンビニ店員との
「箸は一膳でよろしいですか?」
「はい」
というのが1日の 唯一の 人間との会話
コンビニ人間

延々と流れるテレビ番組も 一緒に観る人がいなけりゃ何も面白くはない
暖房の効いた部屋に 乾いた笑いと溜め息ばかり
窓の外は青くて冷たい 氷の世界が広がってる
ずっとこのまま引き篭もっていても許されるだろうか
なんなら猫でも飼ってみようか
色々考えた 一月一日

寝て起きて ご飯をたべて空をみて
年を越した実感のないまま 平成が終わろうとしている

home

1月の後半に学校が終わり 春休みに
そして2月の初めに実家へ帰り 既に2週間が経つ
日記の最後の更新は3ヶ月前
このぽっかりと空いた空白に気づき
年が明けていたのに気づき
そんな2月半ば

しばらくぶりで たいした話もないのですが
またひとつずつ書いてみようかなと思いました
とても天気がよい日なので

report

おひさしぶりです。
最近日記をつけていないですが、うまい具合に生きてます。
今日も元気でやってます。
現状報告だけして、さっと帰ろうかなと思います。




・大学でよい友ができました

3人もできました。
友達をただつくるのは簡単かもですが、面白いやつらを見つけるのには骨を折りました。
それに、仲を深めるというのはやはり難しいことだなと。
しかし今では、授業終わりに一緒に筋トレやらサッカーやらをやっています。
彼らはよく本を読むし、健康に対する意識も高いです。
かなり年齢がばらけたグループなんですけど、根っこの部分が似ているからか、やはり気が合います。
相変わらず男ばかりとつるむ男子校の癖は抜けていない。



・休学を考えはじめました

よい友ができてからは学校が楽しいです。
しかし色々あり、休学を考えはじめました。
これは学校に行くのが辛いからというネガティヴな理由からではなく(ちょっときついけど)、自分の後学のための休学です。
といってもすぐに休学するというわけではなく、1年後か2年後にというふうに考えています。
数日前に母から電話があり、そのときにその旨を伝えると、「どうせなら海外に留学しろ」と言われました。
それもありかもしれません。



・日記を書かなくなりました

冒頭でも触れましたが最近日記を書いていません。
以前は毎日書かないと…と日付に追われるように書いていましたが、ちょっと考えが変わりました。

❇︎

生活の変化に身体と頭が追いついて、余裕が出てきてしまったためなのかな。
息苦しさが、ずっと減った。
言動がお気楽になってきた。
ただポジティヴすぎるのもよくなくて。

惹かれるものはいつだって、生きるために書く人間の文章。
生きづらさを抱えた人間の文章こそ、文学の価値だ。
そう思いながら歩いている。
ネガティヴなものと、ポジティブなものの、そのバランスだよなと、人間は考えながら。


過去の自分を殺しながら すこしずつ成長していく過程の記録
日常のわからなさを わからないまま吐き出す落書き
大切なものを 美しさのままにとっておくタイムカプセル
たくさんの意味合いを 整理のつかない玩具箱に無理矢理ラベルを貼って残すのはたのしかった
それは今も変わらない
しかし 強迫観念に駆られたように書き続けていた日々からは離れ
今は必要なく生きている


だから
これからは
必要なときに
自由に