蝉の聲と骸

"夏の風物詩"のように云われる蝉は、八月の戸口でもまだ、意気揚々と鳴いている。

窓辺の網戸に掴まって、奥の樹木で待つ仲間たちと無線通信を交わしている。
ミーンミンミンミンと決まりきったリズムで、何度も同じ言葉を発して、つまらなくはないのか?と問うてみたくもなるが、彼らなりに精一杯やってるんだろうから茶化しはしない。
むしろ今を全力で生きている彼らを讃えたい。

しかし、それを考慮しても、五月蝿いことには変わりはない。
窓をスミまで閉めきっていても、祭囃子が聴こえてくるというのは可笑しな話だ。
静かな空間を賑わせられるのは好きではないし、体感温度が数度あがったり、集中力がほぐれたりもする。
まったく困ったもんだ。


時雨の絶えぬ土曜の昼下がりに、冷えた缶詰に入った蜜柑ジュースを飲む。
缶のふちの方を、額のすこし汗ばんだ部分に宛てると、ひんやりとした心地好い痛みが沁みる。
晴天のもとを聲が飛び交うなか、橙の滲んだ淡い空を見あげて、ゆるやかな時の流れに溜息も溢れる。
ふと、窓に目をやる。
網戸に掴まっていた蝉は、いつのまにやら沈黙を決めこんでいた。

「オイあんた、急にどうしたんだい、そんなに静かになっちまって。死んだか?もう死んじまったのか?」
なんて、心の中ではそんな声をかけている。

やがて蝉は網戸から手脚を離し、ポロリと真下へと落ちていった。
あまりの呆気なさに、咄嗟、喉の奥からヘンな嗚咽が漏れてしまった。
そのあいだ、仲間の一生を悼むような、樹々の蝉たちの、数瞬の静寂が在った。
時化た部屋のなかには、虚しさと名付けるための空気だけが、余韻として残っていた。


お陰様で静かな部屋になりましたねと、そうは思うのだけど、胸につっかえるぼやけたノイズが鳴り止まない。
実はその雑音が、昼と夜の境界線を指で擦るように曖昧にしていたのだが、それに気付くのはきっと八月の終わりで、静かな窓の外に一抹の寂しさを覚えている頃だろう。
僕らが知らないだけで、夏の側にはいつも、儚い命が在るのだという。